読書について

まるで小説読む以外の趣味がないような過去2日の日記であったが、しかし、私が小説を読み始めたのは比較的最近のこと、大学4年ぐらいになってからに過ぎない。それまで小説を読むことについて特段の意義を見出すことはできなかったし、自分の人生に小説を取り入れる必要はあるまい、とさえ考えていた。それは小説を書いてみたいと、漠然と空想し始めたときでさえ継続していた。自分が記述しようと空想するものは、便宜上小説の体裁を採ってはいるものの、既存の小説という範囲で包括できるものではないと、不遜ながらに考えていた。だから世に流通する小説の、それも著名で時の試練に耐えているものほど、逆に読書に取り入れたいとは考えなかった。模倣を積極的に認めなかった。
そう、模倣を認めなかった。オリジナリティというものは己の心のさらに奥、魂の発露からのみ創出されるのであって、利口に即物的に多読をもって心の領域を拡大することは、オリジナリティなるものの創出外れる、亜流に属すると考えた。それは、本質なるものが徹底的な模倣の連続によって獲得され得るということに、全く気付いていなかったからに違いない。
だから私は遅ればせながら、村上春樹とかドフトエフスキーとかヘッセとかを今読んでいるのだ。そしていかに模倣が、言うは易し、行うは難しかを知った。そう、模倣することさえ叶わないほどに、そうした偉人らの作品は独創性に満ちているのだ。認めざるをえまい。