尊厳死/自殺

高瀬舟 (集英社文庫)

高瀬舟 (集英社文庫)




尊厳死にまつわる問題が論じられているので、これに関係の深い小説は無かったろうかと思い探したところ、やはり『高瀬舟』だろうかと思った。念のために断っておくと、この短い文章でこの問題に対して何かしらの回答を試みようとは、毛頭思っていない。
再び読み返してみて、この短い作品に込められているものはやはり根が深く、解決を見ない問題なのだとの思いを強めた。


登場人物は三人。罪人の護送を命じられた同心・羽田庄兵衞と、喜助、その弟。
今回の事件になぞらえるとすればおおむね次のように符合するだろうか。喜助=医師、弟=死亡患者、そして庄兵衞=事の是非を問う傍観者。つまり僕たち。喜助が自身の手で弟を死なせたため、「医師=遺族」という関係が成立している。これは今回の問題を考える上でとても興味深いことだと思う。
今回の事件で思うのは、やはり医師の判断は過信を含んでいるのではないかということ。とても仕事に対して誠意的な姿が想像できる反面、最終的に自身の判断で尊厳死を選択するあたり、なんとも言えない違和感を覚える。
そして家族の反発にも、やはり違和感を覚える。これは医師へ抱いたものとは異なる種類のものだけれど。家族の同意が得られれば、という点が延命治療か否かの判断材料になるというが、果たしてそれは本当に患者の意に添うものなのか。そもそも家族全員が同様にして患者の意志を汲み、同一の判断を下すに至るということが、現実にあり得るのだろうか。
現行のシステムでは患者の生死が最終的に医師と家族に委ねられている。その権限はあまりにヘヴィではないだろうか。


あわせて自殺にも一応触れておかないといけないだろう。
今日自殺は犯罪とされている。尊厳死においてはどうか。
末期患者が延命中止を望むということは、やはり自殺なのではないかと思う。そしてそれを否定する論理には、正当性が無いと感じる。喜助の弟は生活苦から少しでも兄を楽にするために死を選んだ。その行動にも、責められないものを感じる。


「死ぬ権利」というものが頭に浮かぶ。それが否定されるのは、生きていることが無条件に死よりも優越している、との認識があるからだ。しかしそれも結局のところ、誰にも真実が分からない。
ご飯を食べることも、そのために働くことも、生きていくという観点からは「延命」だと思う。養老猛は『死の壁』において、「人間の致死率は100%」と述べていた。生きるということは自身の寿命の残存を減らしてゆく行為なのだろうか。生と死が本質的に同義、とまでは言わない。けれどやはり「生きていく」は「死んでいく」とほとんど同じ意味でもあると思う。


祖母が死にかかっている。
月々にかなりのお金がかかっている。その経済的な負担は本当に厳しい。よくその辛さを知らない人が、「人の生死にそんな金勘定を持ち込むな」と知った風なことを言う。それはとんでもない誤解だと思う。夜中一時間おきに患者の体の向きを変え続ける苦労はどうせ分かってもらえないんだろう。植物状態の患者に延命を施すことが、どれだけ莫大なお金を要するかも知らないんだろう。
延命はしてあげたい。なぜなら死ぬよりは生きるほうがマシと思うから。
同時に死なせてあげたいとも思う。死んだほうがマシだとも思うから。
延命はされたくない。一家が路頭に迷うほどの出費になるから。
同時に死なせたくないとも思う。何かしなかったことによる後悔を引きずりたくないから。


全部現場で起こっていることだ。医師や患者、家族がそれぞれの矛盾した思いを抱えているのが、今日の終末医療だと思う。
高瀬舟』はこうした現場の葛藤を実に見事に凝縮させている。だからこそ、今なお新鮮な問いかけをしているように思える。