『幽霊−或る幼年と青春の物語−』


幽霊―或る幼年と青春の物語 (新潮文庫)

幽霊―或る幼年と青春の物語 (新潮文庫)

作家は処女作を越える作品を書くことはできない、とはよく言ったものです。確かに処女作と、デビュー以降の作品では書く条件が大きく異なります。デビュー後は基本的に締切があり、何かしら書くテーマというものが提示されるなりなんなりというものがあって、それゆえに一度書き始めれば書き上げなければならないという責任も生じてくるわけで。それに対して処女作というものは、締切がない。すると作家は書く必要性の無いところから何かを記述するに至るわけですが、そこには書き上げる義務が無い。処女作はいわば、作家が世界に何かはきだそうとする、最も原的な創造行為が含まれる。それゆえに、作家は処女作以上の思い入れを込めた作品を後続に打ち出すことができない、と言われているのでしょう。
北杜夫の初めての長編小説にあたる本作は、これといって筋というものがありません。著者の自伝的回想が延々と続くわけです。こうした自己分析的な世界を延々と小説として書き続けるわけですから、読むほうとしてはたまったもんじゃない。ところがこれが、すらすらと読めてしまう。ひとえに文章の美しさが卓越しているんですね。
北杜夫が23歳の時分の作品です。今や高齢の著者が同じテーマで作品を書こうとしても、恐らく本作以上のものは書き得ないでしょう。そのくらい、本作における自己の深層への言及は美しい。

人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。−だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。

この書き出しにやられてしまい、私は北杜夫という作家を本格的に読み始めました。