『文学部唯野教授』


文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)

筒井康隆を紹介するのはちょっと冒険かもしれませんね。なにしろ「これぞ筒井康隆!」ってな具合の、筒井康隆を体現したような作品は無いですから。とりあえず『文学部唯野教授』を出してはみるんですが、他にも紹介したい筒井康隆の「実験」は沢山あります。
ふむ、筒井康隆は色んな「実験的小説」を書いている。『虚人たち』では小説に登場する人物らが小説内の存在であるということを自覚している、という、こうして文章で書いてみても確実に分かってもらえないだろうなあと思うような、そんな感じの作品を書きました。読めばその試みはすぐに理解してもらえると思うんですけどね。他にも『残像に口紅を』なんてのも凄まじい小説だと思います。これは一節ごとに作品に使える五十音の文字が一文字ずつ減っていく、という昔『幽々白書』でそんな戦いがあったような気がしないでもないんですが、まあそんな感じの小説もありました。
それで『文学部唯野教授』なんですが、これは気だるい学内政治を嫌々やりながら学生に批評理論を講義する小説です。大変突っ込みどころ満載の小説で、もうどこをどうどんな角度で突っ込んだらよいか手に余るほどの小説なんですが、さらりとまとめてみましょう。
1,フィクションではない→ダシに使われた実在の人物多数
2,講義内容が怪しい→その方面の専門家が過剰に反応
3,文庫がでかい→岩波の同時代ライブラリーから出版される小説って
以上の観点から文壇はそれはもう、えらい混乱だったようです。出版当時僕は活字世界外だったので今となってはその残骸しか見聞きすることができませんが。あ、3は完全に僕の突っ込みなんですが。
さて本作の「実験」ですが、類型的な言い方で妥協するとすれば「読者殺し」なんでしょうね。ガチの批評理論講義を展開することで、読者がいつのまにか第三者的視点で小説世界を展望しているはずが、唯野教授と向かい合っているかのような錯覚に陥る。これがなぜ「読者殺し」になるかというと、読者はこの作品を読んでいる最中、小説そのものへの批評能力を奪われて、唯野教授の講義そのものへの批評に注力せざるを得ないからです。作中で唯野教授がシニフィアンシニフィエについて説明するとき、「猫」がシニフィアンで現実に外で歩いている猫がシニフィエである、と述べたのですが、これに対して世の色んな人が「間違っている」だの「いや決してダメじゃない」だのと盛んに論争しました。こうした揉め方も、ある意味では筒井康隆の仕掛けた「罠」が成功した事例であると言えるかもしれません。まあ、今さら何を言っても後出しじゃんけんなのですが。
参考に福田和也のあんまり的を射ていないと思われるコメントを紹介しましょう。
「啓蒙への嘲笑が啓蒙にならざるをえない、という構図は、はたして作家にとって意図したものであったのだろうか」



追記:「唯野教授」の説明したシニフィエは、物質的存在としての「ねこ」と混同される、あるいはされやすいものとなっていた。これはソシュールの提示した言語論とは明確に異なっているもので、ソシュールによれば物質的存在として記号による指示を受けるものは「レファラン」とされている。シニフィエは人間が世界から知覚して切り取ってくる観念的な性質のものであって、シニフィエとレファランは明確に区別される。本作に端を発した論争は、ソシュール研究の大御所である丸山圭三郎が「別に間違ってないんじゃないか」と言ったので、まあ筒井康隆は間違ってなかったんじゃなかろうか、と僕は思う。