『痴人の愛』


痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

「ナオミ!ナオミ!もうからかうのは好い加減にしてくれ!よ!何でもお前の云うことは聴く!」
何を云ったか全く前後不覚でした、ただセッカチに、早口に、さながら熱に浮かされた如くしゃべりました。それをナオミは、黙って、まじまじと、棒のように突っ立ったまま、呆れ返ったと云う風に睨みつけているだけでした。
私は彼女の足元に身を投げ、跪いて云いました。
「よ、なぜ黙っている!何とか云ってくれ!否なら己を殺してくれ!」
「気違い!」
「気違いで悪いか」
「誰がそんな気違いを、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つン這いになりました。


痴人の愛』で最も秀逸な描写はここなんじゃないかと思います。否、この箇所をおいて他にどこがあるというんでしょうか。大の大人がお馬さんごっこを必死に懇願する姿。この情景を文学的に描くことができるのは、もう谷崎潤一郎しかいないんでしょう。誰が書いたってギャグにしかならない。高橋源一郎が書いたら裏を読んでしまう。町田康が書いたら嗤うことを強制されてる気がする。大江健三郎が書いたら実際に大江が体験したんだなと思ってしまう。
逆に言うとこうした性愛の極限的な状況を暴き出すことこそ、谷崎潤一郎の真骨頂であるように思われます。本作においてはナオミに求めていた知性なり教養なりを放棄して、肉欲のみに堕してしまう、悪魔的な性衝動の構図を成立させました。あるいは『春琴抄』においては、顔面に傷を負った春琴の美を永遠に脳裏に焼き付けるため、自身の両目を針で刺す男を描き、単なる自虐を超越した愛の構図を成立させました。
本作は「リアルな源氏物語」。期待値をはるかに下回った若紫に求めるのは、単純にその肉体しかなかった、という話。