『色彩の息子』


色彩の息子 (新潮文庫)

色彩の息子 (新潮文庫)


このレビューを山田詠美評ではじめたいと思います。
罪作りな作家だと思う。そして今日作家として文壇に居続けることそのものが奇跡的だとさえ思える。その作品はどこかで聞きかじったようなティーネイジャーの心象と、自意識をこれでもかと肥大させたセックスにまつわる記号の消費で成り立っている。『放課後の音符』、あるいは『ぼくは勉強ができない』。いずれにも共通して言えることは、物語りの構成がほとんど同質であるということ。教室内の圧倒的多数の「衆愚」と、その対比として物語の核に仕立て上げられる一部の「ちょっと大人びた感性の持ち主」。それが対照軸としてまずあって、複雑な家庭事情だの妊娠だのませた性体験だのといった今や消費しつくされた記号をダラダラとくっつけてみる。そうしてちょっとアウトローに構えた主人公かその友人の視点で十代の心理描写を盛り込んで、それで一丁上がり。『放課後の音符』はまさにその構図をこれでもかと再利用した短編集で、同一構図の作品を同じ短編に納めている時点で作家としての手抜き以外のなにものでもありません。耐えがたいのは『ぼくは勉強ができない』で、十代男子高校生の、非童貞の精神的アドバンテージを一人称で描くという、ほとんど蛮勇に等しいことをやっています。これは例えるなら男性作家が村山由佳の作品を書くようなものです。到底自己体験として記述しえない以上、その描写は当然ながらなにかを模倣する以外にないわけで、そうすると必然的にどっかで聞いたことあるようなないような、手垢のついた心理描写になるわけです。それでも模倣や偽装のクオリティを高める方法はいくらでもあるんでしょうが、本作の場合作者が果たしてどれだけの責任感で書いたかは甚だ疑問です。中年女性が男子高校生に抱く妄想を文学的に実践してみた、とすればまあ同人誌的な需要はあるのかもしれませんが。実際山田詠美の読者層はどの辺なんでしょう。やおい好きの女子中高生か、あるいはその文化に揉まれた過去を持つ20代女性ってとこでしょうか。これはこれで妄想か。いやいや。
とまあ僕は山田詠美たくさん読むくせに、あんまり山田詠美が好きではありません。しかしながら上記の内容を逆接的に捉えてみると、案外一部の短編には目をみはるものもあったりします。それが今回紹介したい作品、『色彩の息子』です。
長編では冗長な妄想で辟易させられる著者ですが、短編ではそれがよく作用しているように思われます。確かに同人誌的な要素はぬぐえないのですが、明快なテーマを限られた分量で鮮やかに書ききる技術は抜きんでたものがあるように思えます。山田詠美吉本ばなながあまり好きではないという人は、ぜひ短編を読んでみてほしいです。