インディヴィジュアル・プロジェクション


インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)


阿部和重の作品の中では、「らしさ」がなりを潜めているように思われます。『アメリカの夜』よりも無駄な記述が少なくすっきりしている分、逆にその奥行きが狭められているというか。
スパイものです。映画学校に行ったり、スパイ訓練を受けたり。途中、語り手である主人公の記憶に関して倒錯が見られ、それゆえ語りの性質がいわゆる「信頼できない語り手」となり、なんだかミステリーの「新本格」みたいな手法を思わせます。謎解きしている本人が実は、犯人だった、みたいな。
読んでいて隙を与えないなぁと感じます。逆に読みの自由度を狭めるというか。「こうとしか読めない」という不可疑な読みは、多分阿部和重は嫌っていて、「自由に読んで類推してみてくださいね」という適度な読者参加を、本来この作家は好んでいるんじゃあないかなぁ〜〜〜と思うのですが。どうなんでしょうか。
やや禁じ手に近いのですが、『インディヴィジュアル・プロジェクション』の創作にまつわる言及が『阿部和重対談集』にあるので引用してみます。

阿部和重対談集

阿部和重対談集

阿部 (中略)『インディヴィジュアル・プロジェクション』は、完璧主義的な厳密性を意図して書いてしまったという印象のほうが強い。だから完璧主義の放棄みたいなことは今考えているところで、移行の段階です。デビュー時以来の僕にとっての文体上のモラリズムから抜け出ることはできたとは思いますが。「面談時評」の中で高橋さんは、早いばかりの小説があってもいいじゃないかとおっしゃっていましたよね。僕も早いばかりの小説というのを、今回は目指したつもりではないんです。その点では風通しがよくなっているかもしれない。
高橋 読んでももちろんおもしろいし、文体が持っている自由さはあるけれども、作品としてはやっぱり息が詰まるところがありますね。完結しているし、きれいな形におさまっている。でもこれは言ってもしょうがないことですね。作者が病気なんだから(笑)。
阿部 いや僕も、これは病だなと。これを続けていったら、さすがに先がないだろうと思いました。
阿部和重阿部和重対談集』一七〜一八頁、高橋源一郎との対談による)


これはほんとにその通りなんだろうなあと思いました。『インディヴィジュアル・プロジェクション』は一見放漫に書かれたように見えて、どうしてもそこに厳密性が見え隠れする。もっと言えば、作者の「仕掛け」が見えやすい構造になっている。読んでみてほんとに疲れる作品です。
しかし、その後の作品は『ニッポニアニッポン』といい、再び『アメリカの夜』的な世界観が戻ってきているようです。いずれにしてもこの作家、十年活動しておいて信じがたいほどの寡作。もっと働いてほしいもんです。