蒼き狼


蒼き狼 (新潮文庫)

蒼き狼 (新潮文庫)


井上靖は小説家ですが歴史学者顔負けの研究者でもあります。著者が得意とするのは中央アジアの古代史で、以前紹介した『敦煌』、オアシス国家の勃興を描いた『楼蘭』、そしてチンギス=ハンの生涯を描いた本作『蒼き狼』などはまとめて「西域もの」と呼ばれています。
蒼き狼という伝説があります。『元朝秘史』の冒頭には、「上天より命ありて生まれし蒼き狼ありき。その妻なる生白き牝鹿ありき」という記述があります。これはモンゴル族の先祖が狼と鹿であるという、始祖伝説です。
チンギス=ハンの出生は謎に包まれていて、『元朝秘史』の、ほとんど神話としか言えない記述を頼りに類推するより他にありません。井上靖は『元朝秘史』の記述を下敷きに、チンギス=ハンという征服者を「蒼き狼」の末裔というモチーフで描きました。それが本作『蒼き狼』です。
この作品は僕が井上靖という作家を知るきっかけになった作品で、個人的に思い入れがあります。貪欲に領土を拡大してゆく征服者の野心には、子ども心に憧れを抱きました。

この作品を巡っては「蒼き狼論争」というものがあるので、簡単に紹介しておきます。
かいつまんで言うと、大岡昇平が「これは歴史小説とも叙情詩とも言えないんじゃないか」と噛みついたことに始まります。そもそもチンギス=ハンが蒼き狼という存在に霊感を受けて征服を行ったという痕跡は一切残されていないわけで、歴史小説とは言えない、というのが大岡の主張です。また、大岡は『元朝秘史』との比較を通じていくつかの「改竄点」を指摘し、本作の構造的な破綻を主張しました。
これに対する井上靖の主張は以下のようなものです。「『蒼き狼』に於いて私が書きたかったものは、歴史ではなく小説である。少し気負った言い方を許して戴くとすると、私はどの歴史書の説明でも説き得ない成吉思汗という人間の持っているある面を、それを小説化することに於いて解決したかったのである。」
要するに、井上と大岡の間で争点となったのは小説における歴史の扱い方でした。この論争は決着が着かなかったのですが、その後井上が発表した『風濤』という高麗史を描いた作品は、大岡の指摘を踏まえて抑圧した文体で書かれ、史実には忠実になったものの作品としてのデフォルメは極力排除され、『楼蘭』や『蒼き狼』のようにロマン溢れる作品では有りませんでした。個人的には、「大岡昇平、余計なことしやがって」と思います。




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