ホリエモンってぶっちゃけどうよ

そろそろライブドア事件のことを考えてみる。
なぜこのタイミングなのか。いや、むしろこのタイミングでしか、事件のことを語る意味が無いように思われたのです。以前このブログでJR福知山線脱線事故のことを書きました。偉そうに持論を述べた、今思えば恥ずかしい文章でした。それはともかくとして、その時に次のような意見を見かけたのです。
「誰もが虚ろであると分かっていながら、それでも何か語らざるを得ない時、その語りはやはり虚ろでしかない」
脱線事故の際情報の錯綜や事態の不可解な進展により、ネット上、新聞紙面上を問わず様々な意見が社会に提出されました。JR側を糾弾する者もいれば、事件の構造に何か特別なものを見出そうとする者もいました。しかしそれらは一様にある種のむなしさを孕んでいたように思えるのです。あるいは苛立ち、と言ってもいいのかもしれません。僕は各方面で噴出する意見を見比べながら、何か決定的な、足場のようなものが欠けているように思いました。そうした「喪失感」とも言うべき感覚を表現するとしたら、上記のような一文に集約されるのではないかと感じます。基本的にあの当時出てきた多くの語りは、虚ろだった。あるいは最初から語りは虚ろなものにしか成り得なかったのかもしれない。「死んだ人は戻ってこない」とか「遺族でもないのに」とかいった正論的な言葉が、どこか頭の片隅にあった。そうした正論を抱える場に吐き出された言葉は、どんなものであれ虚ろに成り下がったと、今は思うのです。
ライブドアの事件を今論じることには、やっぱりさしたる意味があるとは思えない。どうせ全ての情報を把握することなんて不可能だし。いや、そんなことは当事者でさえ不可能なんだけれども。しかしながらホリエモンという人が社会にもたらした収支を測定することには多少の意義があるように思えます。そしてそれには文学的な価値があるように思えます。
ホリエモンが生み出した雇用や流通の総額はどれほどのものなのでしょう。単純にそれらの経済的な総額をプラスとし、今回の一件で市場に与えた損失をマイナスと勘定したら、そのプラマイはどうでしょう。いや、別にホリエモンを擁護するわけじゃないんですが、悪いことばっかりしたわけじゃないよね?って言いたいだけです。はい。そうした金銭ベースとは別の尺度で見たとき、やっぱりホリエモンという人は日本社会にとってプラスの存在だったと思うのです。世のサラリーマンのみならず様々な人は、ホリエモンの仕事に対する態度や方法論において、見習うべき点は多かったように思えます。ルールの中で利益を生み出すという点において、ホリエモンは間違いなく第一級のプレーヤーでした(ルール外のプレーヤーでもあったわけですが)。欧米のヘッジファンドのような、マネーゲームと割り切ったビジネス手法が、受け入れられつつもまだ抵抗がある、というような状態にあった中で、あからさまにその手法を惜しみなく利用し、社会に「提示」して見せたことは、ホリエモンの革新的な功績だったのではないでしょうか。勿論そんなことはホリエモンが始めたわけではありませんでしたが。まあホリエモンの功績だったということでここは一つヒザをぽんっと打ってほしいわけです。
そしてホリエモンはもう一つ、日本社会に重要なものを提示したのかもしれません。
昨年12月の「週間ダイヤモンド」で作家の高村薫は「ヒルズ族」と言われるIT企業の若手経営者らに対し、「社会をリードする会社として、社会という大きな枠組みのなかでの思考ができていない」と苦言を呈しています。
この号での高村の発言は次のように要約できると思います。第一に今日本社会は過去の検証を行わないままに移行している、ということ。小泉内閣の改革を例に挙げ、「改革は壊すものではなく、計画を立てて変えていくことですよ」と指摘し、地に足を着けていくことが必要であると述べています。第二に格差の進展を指摘しています。ヒルズ族のような経済的な勝ち組とそれ以外、という経済格差の進展がまずある。そして、今後は複雑な言葉を獲得できた層と、簡単な言葉しか獲得できなかった層とに分かれていく可能性がある、つまり知的階層格差の進展が予測される、というものです。
まず第一の、「過去を振り返る作業」というものですが、これはかなり一般論であり、言い放しでいいなら中学生でも言えるレベルなように思えます。過去の検証作業を具体的にどのように進めるのか、それは高村の発言によれば「50代・60代生きてきた時代を総括して下の世代に語ることが必要」とされていますが、それは個人としての語りなのか、あるいは制度としての語りなのか、それが見えてこない。さらに高村は過去を振り返ることの重要性を、「二〇年前、株バブルでいかに大変な思いをしてきたか。それがわかっていれば、根拠のない株価の高騰は起こさないはずではないですか。なのに今、個人投資家がわれもわれもと株に群がっている。こんな危険なことはありません」と昨今の株価高騰をバブルになぞらえて提示しています。これは率直に高村が無知としか言いようがなく、少なくとも僕の知る限りでは、市場が過去の経験に基づいて適正株価を創出することなどあり得ません。17世紀初頭オランダのチューリップバブル以来、市場は常に妄想と失望を繰り返してきたと言えます。ダイヤモンドのような経済誌にどうしてこうしたコラムが掲載されるのか不思議でなりません。
第二の格差進展にまつわる話ですが、これに次のようなことを僕は考えてみます。仮に経済的な格差と知的格差を二軸で設定してみる。すると明らかに両者は全く同一の分布で存在するわけではない。ホリエモンはどう配置されるか。経済的には間違いなく分布の一端に位置するはず。では知的階層を、「下位階層を牽引する言葉を持っているか否か」と定義した場合、ホリエモンは果たしてどうか。ホリエモンの言葉は、財を獲得する上では他者に一歩先んじるけれど、それは牽引する言葉ではないように思う。暴走を止める「オトナの言葉」が無かったライブドアが凋落したことは、示唆的であるように思える。ホリエモンの功を無理矢理一つ挙げるのならば、こうした格差社会の到来を可視的にしたことではないでしょうか。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)

三島由紀夫の描いた『青の時代』はホリエモンと似たような経歴の経営者が、繁栄を極め、凋落していく様を描いた作品です。
現代小説が現代社会の映し鏡であるならば、前衛小説は来るべき前衛社会の反映でなくてはなりません。文学はどのような社会を描きうるのか。あるいは、最早「事実は小説より奇」であって、前衛小説はその意義自体失っているのか。


余談ですが、複雑な言葉を獲得してかつ、経済社会のリーダーを勤める人物として僕が思い描くのは、島耕作も尊敬する中沢喜一です。