神様のボート


神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)


(05/11/23)
目下『流しの下の骨』と並んで江國香織の代表作との呼び声が高い『神様のボート』。著者らしく日常風景が繊細に描かれています。夫の帰りを信じて長い長い母子家庭を続けていく母と娘。住まいを転々とし、一つ所に根を下ろせない様子を「神様のボートに乗った」と綴っています。そしてそこに繰り広げられていく静かな狂気は、著者をして「いままでに私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています」と言わしめています。
知人の言葉なのですが、「江國好きはばなな嫌い、ばなな好きは江國嫌い」という図式が成立するそうです。根拠は無いのですが。とすればこの作品を読んで魅了されるところがなければ、それは吉本好きなのかもしれません。
江國香織は大変な売れっ子作家なので、ほとんどの著作を書店で手に入れることができるでしょう。


追記(06/02/15)
だいぶ前に読んだのですが、最近(06/02/15)になって再び読み返しました。というのは、本作が果たして、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、という二者択一的な読みが可能であるという話を知人に聞いたためです。個人的な見解を示しますが、ネタバレが嫌な方は以下の文章を読むことを薦めません。
問題は本作の最後、葉子のもとを失踪した夫(と推定される人物)が訪れる場面です。夫の帰還を長らく待ち望んでいた葉子にとってそれは考え得る最高の事態が起こったわけで、その再会をしてハッピーエンドと解することができます。僕は最初に読んだ時、ハッピーエンドの作品だと思いました。基本的に書かれていることを真正直に受け取るタイプの読み手であると自認しています。
しかし読み返してみて、バッドエンドとしての読みも、それを裏付けるに十分な根拠があるな、と思いました。バッドな読みの立場では、ラストシーンの夫婦再会を、「狂気に陥った葉子の妄想」と解することができます。それに至るまでの複線として、溺愛する娘の草子が葉子の元を離れてしまうのですが、その後の葉子の絶望は「いつ死んでしまっても構わないと思う」(文庫本、272頁)と明らかにされています。また、本作のもう一人の語り手である草子の視点からも、葉子との電話の後で「あたしはなんだか怖くてたまらない」(文庫本、273頁)と葉子の異常な容態について言及しています。さらに直近の274〜275頁にかけては葉子(と推測される人物)の心理描写が挿入されていて、その文脈は死を連想させるものとなっています。こうした流れからも、ラストシーンの夫婦再会はかなり唐突であると言わざるを得ず、またあまりにご都合主義的であるので、これを死さえ人生の選択肢に加えるほどに追いつめられた葉子の、狂気世界の産物と解することができます。
あらためて読んでみるとなんだかバッドエンドのような気がしてきました。個人的な見解をさらに追加するとすれば、草子も準主役として父親との再会は望むところであるはずなのに、それが行われないということはそれが不可能である=葉子の内部で起こっている事態と見なすことができます。
以前読んだ時になぜハッピーエンドと思ったかというと、恐らく江國香織のあとがきを読んだせいなのだと思います。

「彼女」には娘がいて、彼女たちはもう何年も旅をしています。放浪する母と娘の話です。いやはや。
でも、もしそれが神様のボートなら、それはやっぱり、どこかに舫われているべきではない。
私はそう思いました。それで綱をときました。ボートがどこに着くとしても。
江國香織『神様のボート』二七八頁)


別にこの部分に直接的な回答があるわけでもないのですが、何故かこれを読んだ時、僕は作者の創作動機には幸福への希求が含まれていると感じました。作者は綱をときました。それはやはり、あてもなく大海を彷徨うボートに、神様のボートにふわさしい船着き場を、用意してやりたかったからなのではないかと、そう思ったのです。



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