嗤う伊右衛門

嗤う伊右衛門 (角川文庫)

嗤う伊右衛門 (角川文庫)



あまりにもぶ厚すぎて読む気がなかなか起きない京極夏彦ラインナップ。その中では比較的薄めの本作ですが、それでも手元に置いてから読み始めるのにかなりの時間を要しました。というのは、本作は四谷怪談のパロディというか新解釈というか、そういう性質の作品なので、あんまり本家四谷怪談に明るくない自分が読んでも、もしかして面白くないんじゃあないだろうか??なんて思って放置していたのです。積ん読はよくないんですが。いやはや。
旅行の暇つぶしにと持って行ったのですが、いやいやどうして。滅茶苦茶面白いじゃないですか。おどろおどろしさと哀しげな人間模様が交錯していて、悲哀なリリシズムがそこかしこに存在するのです。いや、リリシズムという単語を使ってみたかっただけなのですが。
個人的に秀逸だと思った箇所は、伊東が武士の偉そうな態度へ抱いた憎悪を、「ぷくりと泥がわいた」と表現したところでしょうか。鬱積した「表現仕切れない何か」を泥と表現して可視化しているのがクールですごくいい。と思う。終盤、直助の悲痛な告白にはちょっと涙が出そうになった。

流しの下の骨

流しのしたの骨 (新潮文庫)

流しのしたの骨 (新潮文庫)


傑作。だと思う。気負うことなくリラックスして読むことができます。単純に娯楽と割り切って読んでも十分エンターテインメントとして成り立つように思えます。作品世界が大変心地よく、普段堅い純文学に親しんでいる人でも辟易させられることなく、読みすすめられると思います。
各々が別のベクトルを向いていて、でもその緩やかな結合を失わずにいる家族の話です。
これ以上は蛇足だと思うのでレビューをこのぐらいで。

ホリエモンってぶっちゃけどうよ

そろそろライブドア事件のことを考えてみる。
なぜこのタイミングなのか。いや、むしろこのタイミングでしか、事件のことを語る意味が無いように思われたのです。以前このブログでJR福知山線脱線事故のことを書きました。偉そうに持論を述べた、今思えば恥ずかしい文章でした。それはともかくとして、その時に次のような意見を見かけたのです。
「誰もが虚ろであると分かっていながら、それでも何か語らざるを得ない時、その語りはやはり虚ろでしかない」
脱線事故の際情報の錯綜や事態の不可解な進展により、ネット上、新聞紙面上を問わず様々な意見が社会に提出されました。JR側を糾弾する者もいれば、事件の構造に何か特別なものを見出そうとする者もいました。しかしそれらは一様にある種のむなしさを孕んでいたように思えるのです。あるいは苛立ち、と言ってもいいのかもしれません。僕は各方面で噴出する意見を見比べながら、何か決定的な、足場のようなものが欠けているように思いました。そうした「喪失感」とも言うべき感覚を表現するとしたら、上記のような一文に集約されるのではないかと感じます。基本的にあの当時出てきた多くの語りは、虚ろだった。あるいは最初から語りは虚ろなものにしか成り得なかったのかもしれない。「死んだ人は戻ってこない」とか「遺族でもないのに」とかいった正論的な言葉が、どこか頭の片隅にあった。そうした正論を抱える場に吐き出された言葉は、どんなものであれ虚ろに成り下がったと、今は思うのです。
ライブドアの事件を今論じることには、やっぱりさしたる意味があるとは思えない。どうせ全ての情報を把握することなんて不可能だし。いや、そんなことは当事者でさえ不可能なんだけれども。しかしながらホリエモンという人が社会にもたらした収支を測定することには多少の意義があるように思えます。そしてそれには文学的な価値があるように思えます。
ホリエモンが生み出した雇用や流通の総額はどれほどのものなのでしょう。単純にそれらの経済的な総額をプラスとし、今回の一件で市場に与えた損失をマイナスと勘定したら、そのプラマイはどうでしょう。いや、別にホリエモンを擁護するわけじゃないんですが、悪いことばっかりしたわけじゃないよね?って言いたいだけです。はい。そうした金銭ベースとは別の尺度で見たとき、やっぱりホリエモンという人は日本社会にとってプラスの存在だったと思うのです。世のサラリーマンのみならず様々な人は、ホリエモンの仕事に対する態度や方法論において、見習うべき点は多かったように思えます。ルールの中で利益を生み出すという点において、ホリエモンは間違いなく第一級のプレーヤーでした(ルール外のプレーヤーでもあったわけですが)。欧米のヘッジファンドのような、マネーゲームと割り切ったビジネス手法が、受け入れられつつもまだ抵抗がある、というような状態にあった中で、あからさまにその手法を惜しみなく利用し、社会に「提示」して見せたことは、ホリエモンの革新的な功績だったのではないでしょうか。勿論そんなことはホリエモンが始めたわけではありませんでしたが。まあホリエモンの功績だったということでここは一つヒザをぽんっと打ってほしいわけです。
そしてホリエモンはもう一つ、日本社会に重要なものを提示したのかもしれません。
昨年12月の「週間ダイヤモンド」で作家の高村薫は「ヒルズ族」と言われるIT企業の若手経営者らに対し、「社会をリードする会社として、社会という大きな枠組みのなかでの思考ができていない」と苦言を呈しています。
この号での高村の発言は次のように要約できると思います。第一に今日本社会は過去の検証を行わないままに移行している、ということ。小泉内閣の改革を例に挙げ、「改革は壊すものではなく、計画を立てて変えていくことですよ」と指摘し、地に足を着けていくことが必要であると述べています。第二に格差の進展を指摘しています。ヒルズ族のような経済的な勝ち組とそれ以外、という経済格差の進展がまずある。そして、今後は複雑な言葉を獲得できた層と、簡単な言葉しか獲得できなかった層とに分かれていく可能性がある、つまり知的階層格差の進展が予測される、というものです。
まず第一の、「過去を振り返る作業」というものですが、これはかなり一般論であり、言い放しでいいなら中学生でも言えるレベルなように思えます。過去の検証作業を具体的にどのように進めるのか、それは高村の発言によれば「50代・60代生きてきた時代を総括して下の世代に語ることが必要」とされていますが、それは個人としての語りなのか、あるいは制度としての語りなのか、それが見えてこない。さらに高村は過去を振り返ることの重要性を、「二〇年前、株バブルでいかに大変な思いをしてきたか。それがわかっていれば、根拠のない株価の高騰は起こさないはずではないですか。なのに今、個人投資家がわれもわれもと株に群がっている。こんな危険なことはありません」と昨今の株価高騰をバブルになぞらえて提示しています。これは率直に高村が無知としか言いようがなく、少なくとも僕の知る限りでは、市場が過去の経験に基づいて適正株価を創出することなどあり得ません。17世紀初頭オランダのチューリップバブル以来、市場は常に妄想と失望を繰り返してきたと言えます。ダイヤモンドのような経済誌にどうしてこうしたコラムが掲載されるのか不思議でなりません。
第二の格差進展にまつわる話ですが、これに次のようなことを僕は考えてみます。仮に経済的な格差と知的格差を二軸で設定してみる。すると明らかに両者は全く同一の分布で存在するわけではない。ホリエモンはどう配置されるか。経済的には間違いなく分布の一端に位置するはず。では知的階層を、「下位階層を牽引する言葉を持っているか否か」と定義した場合、ホリエモンは果たしてどうか。ホリエモンの言葉は、財を獲得する上では他者に一歩先んじるけれど、それは牽引する言葉ではないように思う。暴走を止める「オトナの言葉」が無かったライブドアが凋落したことは、示唆的であるように思える。ホリエモンの功を無理矢理一つ挙げるのならば、こうした格差社会の到来を可視的にしたことではないでしょうか。

青の時代 (新潮文庫)

青の時代 (新潮文庫)

三島由紀夫の描いた『青の時代』はホリエモンと似たような経歴の経営者が、繁栄を極め、凋落していく様を描いた作品です。
現代小説が現代社会の映し鏡であるならば、前衛小説は来るべき前衛社会の反映でなくてはなりません。文学はどのような社会を描きうるのか。あるいは、最早「事実は小説より奇」であって、前衛小説はその意義自体失っているのか。


余談ですが、複雑な言葉を獲得してかつ、経済社会のリーダーを勤める人物として僕が思い描くのは、島耕作も尊敬する中沢喜一です。

陛下


陛下 (中公文庫)

陛下 (中公文庫)


久世光彦さんがお亡くなりになったそうです。「演出家の久世光彦さんが逝去」と書かれていたので誰かと思いました。作家としての顔しか知らなかったのです。「時間ですよ」等のドラマを手がけた、と聞きましたが、当然ながら見たことないのでいまいちピンときません。
ということで読みかけだった久世作品を急いで読み終えました。荒く読んだので、レビューもちょっと雑になります。後日書き直すかもしれません。というのは、この作品は大変デリケートな史実を扱っており、周辺資料を併せて読んでみたい、という気持ちがわいているのです。
二・二六事件を題材とした小説です。架空の主人公・剣持梓は、北一輝との交流を通じて叛乱へと突き進んでゆきます。北一輝という名前ぐらいは、日本史に疎い僕も知っています。右翼思想家とも社会主義者とも言われる人です。著作『日本改造法案大綱』は、事件の首謀者である青年将校らに影響を与えました。事件後に民間人として唯一、死刑を宣告されたのが北一輝でした。北一輝を論じる評論も世の中に出回っているようです。
この作品を読んで「恋闕」という言葉を初めて知りました。恋闕とは、女性に恋をするように天皇を思慕することを言うそうです。今の世の中ではにわかには信じられない概念です。戦後に反戦・非戦を題材とした作品が多く現れました。それらは、戦時中の「個」を主題とした物語と捉えることができると思います。しかしながら戦時中、「個」を超越した、あるいは超越しているかのように振る舞った「公」という概念、そしてその「公」とまさに身も心もともにした物語が、確かに存在したと言えます。それが本作『陛下』なのだろうか、と思いました。まさに三島由紀夫の視線です。三島の『奔馬』もあわせて読み返したくなりました。
戦前という時代を疑似体験する方法は、映像なり本なりといったメディアに頼るより他に仕方がありません。戦争体験世代がもうまもなくいなくなるでしょう。口頭伝承が無くなれば、ますます戦争学習の重要性は高まるように思えます。

サヨナライツカ


サヨナライツカ (幻冬舎文庫)

サヨナライツカ (幻冬舎文庫)


これでもかってぐらい王道を行く恋愛小説です。確かに構図そのものは定式化されたものだし、陳腐と言えなくもない。けれど明快な手法に支えられたこの作品は、大変しっかりした構成で描かれていて、読んでいて安心感があります。
筋としては、結婚を控えて火遊びをしたものの、段々遊びじゃ済まなくなってきた、というような感じでしょうか。二人の間の駆け引きが面白い。200ページほどの作品ですが、もっと分量を多く書いてほしかったかも。
個人的には、貪るようにお互いを求め合った二〇代の話よりも、時を隔てて再会した第二部以降のほうが感銘を受けました。肉体的な交渉が無いかわりに互いの心に通うものが、時間の経過を経てより洗練されているように感じられたのです。宮本輝の『錦繍』を彷彿とさせました。
たまにはこういった、読んでいて恥ずかしくなるような恋愛小説も楽しいですね。




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卑弥呼伝説


卑弥呼伝説 (集英社文庫)

卑弥呼伝説 (集英社文庫)


たまには趣向を変えてミステリーを紹介します。井沢元彦歴史小説家にして推理小説家です。有名なものとしては「逆説の日本史シリーズ」でしょうか。このシリーズはなにぶん読んだことがないのでなんともコメントできないのですが。
本作『卑弥呼伝説』は、ある殺人事件を邪馬台国の謎と関連して解き明かしてゆく構成になっています。ですから登場人物の会話がやたら説明臭いところもあるのですが、事件の全容解明と邪馬台国の謎解きが平行、交錯して展開されていきます。特に邪馬台国の存在した位置に関する論考は、かなり飛躍的な発想ではありますが、機知に富んでいて大変楽しく読めます。日本古代史好きにはたまらない内容でしょう。『神々の指紋』のようなトンデモ本とは違い、一つひとつの考察が大変丁寧になっているので途中で詭弁に気づいて萎えるようなこともありません。
ちなみにこの人はテレビで保守的な発言(太平洋戦争に関する歴史認識等)をするため、言論的にはほぼ「追放」状態にありますが、時々小林よしのりなんかと似たような立ち位置で出現します。



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潮騒


潮騒 (新潮文庫)

潮騒 (新潮文庫)


三島由紀夫の作品を色々と読んでいると、この『潮騒』があまりに奇妙な作品であるということが分かります。『仮面の告白』や『金閣寺』で採用された偏執的な衝動を内に抱えた人物、というものがほとんど出現しない。本作に展開されるのはほとんど肩すかしのような、純愛の構図なのです。このことについてはこのブログで延々と書くよりも本作の解説にある佐伯彰一の言及のほうがよっぽどまとまっていて詳しいので、読んだ後にでもぜひ目を通すことをおすすめします。
伊勢湾に位置する離島で繰り広げられる、若い漁師と島一番の美女との恋の話です。両者はいくつかの障壁を乗り越えて、互いに純潔を保ったまま結ばれます。この作品では一切の血なまぐささがありません。強姦もなければ不義の妊娠もない。暴力的なものが排除された、それは意図的なものとさえ読めるような、そんな純朴な作品になっています。
繰り返しになりますが本作は三島作品群の中で明らかに「浮いて」います。その性質がなんなのか、あまりに仕掛けが無く、それがかえってこの作品の仕掛けなのだろうかと思えてしまうほどに無風なのです。三島由紀夫が本作を発表した意図がなんなのか。それは三島由紀夫という、極端に自意識過剰で自己演出に惜しみなく力を注ぐ人物だからこそ、その意図を汲み取ってみたい欲望にかられるのでしょうか。




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